みなさん、こんにちは!今日はすご~く寒いですね!私が住んでいる九州では、最高気温10度って予報が・・・心持ちはホットに行きましょう!
さて、本日の話題はとよかがみ(豊鑑)です。
■豊鑑って?
これは、豊臣秀吉の伝記で、彼の「軍師」といわれた竹中半兵衛重治の息子が書いたものです。
■豊鑑の意義って?
戦国時代の史料は数々ありますが、その中で「ほぼ」戦国時代あたりで書かれたことや、戦国武将自身が書いたことに意義があると考えています。江戸時代以降に書かれたものって、簡単に信用できないんですよね、注意が必要なんです。特に、江戸時代の講談本とかで脚色された歴史とか俗説がごちゃまぜになってしまっているものみたいに、不純物が混ざってしまっていると、本当に信じていいのか・・・って思ってしまうんですよね。
もちろん、「豊鑑」についても、著者自身が気を遣って書けないと思ったことや事情を知らなかったことについては書かれていないので、全面的に鵜呑みにするわけにはいきませんけどね。でも不純物は少ない気がします。
■著者ってどんな人?
著者の竹中重門さんってどんな方なんでしょうか?
「天正元年(1573年)、誕生。
父・重治の死後、一族の竹中重利の後見を受けて、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕える。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍する。天正16年(1588年)に従五位下丹後守、翌天正17年(1589年)年には美濃国不破郡に5000石を授けられた。文禄の役では名護屋城に駐屯し、慶長の役では軍目付として朝鮮へ渡海した。戦後、戦功によって河内国内に1000石を加増される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属して犬山城主石川貞清を援助するが、井伊直政の仲介によって東軍に鞍替えする。そして他の主たる東軍の武将同様、みずからの居城である菩提山城を徳川家康に提供している。本戦では、幼なじみでもある黒田長政軍に合力して激戦地で奮戦し、さらに戦後まもない9月19日、伊吹山山中で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げ、家康から直筆の感状を受けた。
また、関ヶ原は竹中氏の所領であったことから、戦没者に対する供養料1000石を下賜されるなど、幕府旗本(交替寄合席)として美濃岩出山6000石を安堵され代々継承した(のちに分家を輩出し5000石となる)。庶子の一人は長政との縁により福岡藩黒田家に重臣として仕えた。
戦後は居城を竹中氏陣屋に拠点を移し、二条城の普請や大坂の陣にも参加したが、寛永8年(1631年)に江戸にて死去する。享年59。墓所は東京都港区の泉岳寺。」(Wikipediaより)
なんと、初陣が11歳。しかも、秀吉として比較的苦戦した小牧・長久手の戦い。
15歳で叙任されています(黒田官兵衛は30代にしてやっと叙任されたのに)。
秀吉に気に入られたいたのかも知れないし、早世した父の竹中半兵衛に対して秀吉が感じていた恩義を子の重門に返したのか、重門は若いから恩を売っておけば従うだろうという計算が秀吉にあったのか、どうなんでしょ。
そして、彼は、林羅山に師事し、死の間際の寛永8年(1631年)に『豊鑑』を著しました。
では、今回はここまでで。またお会いしましょうね~!
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